Img_6af9664b48ac53cf1a6171d3fd5106b5
先日、高校時代の友達と会う約束をしていたのだけれど、風邪と、喘息と、低血圧の三つ巴に襲われ、やむなくキャンセル。「ごめんね、体調が」とメールしたところ、次の日「元気を出して」と、はらこ飯と小田和正さんが出演している20年前くらいのビデオを3本、持ってきてくれた。

彼女とは高校当時から共にオフコース、そして小田さんのファン友ということで「聡子が元気ないなら小田さんが一番だろう」と、車で遠出してくれた訳である。



小田さんのビデオのうち1本は、北野武との対談だった。私は「HANA-BI」までの武映画を愛している。「その男、凶暴につき」「3−4X10月」「あの夏、いちばん静かな海」「ソナチネ」「キッズ・リターン」。厳密に言えば「キッズ・リターン」までかな。この5本は本当にどれも素晴らしい。「HANA-BI」は少し、自己模倣的で始末が良すぎるように思う。とはいえ、泣くけれども。「クランキーチョコレート」で、毎回、涙腺結界。

「なぜ、作品を作るのか」という話になり、小田さんは「喜んでくれる人がいるから」と言うのだけれども、武はしばらく無言になる。「誰もいなくても作る?」という小田さんの問いに、武は、自分が最初の客だというようなことを言い、創造主のようには作れないけど、そのくらいのオリジナルなものを作りたいという気持ちがある、と抽象的なことを答えた。誰のためでもなく、作りたいと思うから作る、というようなことだろうと思う。それでいて別の場面では「作品を発表することには“ここに俺がいるよ”ということを発信している気持ちがある」とも言っていた。

ファンとしては、小田さんのスタンスを嬉しいと思ったし、同じ作り手としては武の返答に強く共感し、昔のブログに書いていた自分の文章を思いだした。2010年7月31日のエントリー。


「無人島で絵を描くか?」ということを、これまで何人かと話したことがある。
「見る人のいないところでは絵を描かないと思う」という返答が意外に多いことに驚く。

無人島でも、私はきっと描くだろうと思う。
砂浜を支持体にして、木の枝ででも描くだろう。
子供の時、誰に見せるでもなく、
アスファルトに石で絵を描いて、ひとり遊びを続けたように。

では「明日、世界が終わるとしたら絵を描くだろうか?」と、考えてみる。
世界が終わるなら、描かないかもしれない、と思う。
世界が無くなるなら、作品もまた消えるだろうから。
世界が消えると覚悟したら、自分は出来得る限り、
さまざまなものを見て回ろうとするのではないかと想像する。
よりしっかり見るために描く、ということはあるかもしれないし、
最後の最後に、最も愛着のある視覚情報を引き出そうと、
描いてみることもあるかもしれないが。

そう考えて、自分にとって描くことは、
見ることの延長線上なのだと気が付く。
自己表現とか、コミュニケーションとか、メッセージとか、
そういう部分ももちろんあるけれど、それは二次的な部分であって、
私にとって描く理由の根幹はやはり「見る」ことなのだと思う。
誰かに見せるために作品を作るのではなく、
自分が世界を見るために試みた行為が作品になるという方が、
私の気持ちにはぴったりとくる。

だから、時に、自分の作品を理解してもらうと、
毎回、奇跡のように驚くし、嬉しく思う。
自分以外、誰もいないと思っていた島で、
同じようにひとりきりでいた人に、出会えたように感じるからだ。

Img_5eb31faea221d6ef6c398c80a708e34f
Img_6b9322f2658522041b4e3ca54483cbe1

成長痛、知恵熱、そうなら良いと思う。

ここ1,2年、ほとんど制作について悩むことはなかった。
発表の予定に追われることが私の背を押し続けてくれていた。

見えない、線がつかめない日が続く。

亡くなる前の、兎の耳を思わせる
痩せた
鶏頭の花弁を描写している。
まるで、すがるみたいに。

新しく買った鶏頭も、福福と咲いているけど、
今は、枯れかけた鶏頭を捨てられない。

早々に枯れた鶏頭をよそに、
一輪だけ、ちんまり、色を残して咲いている。

どうしても見返せない部分がある。
眼を凝らしても、見えてこない部分がある。

不用意に開けてしまったカメラの裏ぶた。
Dead Zone

逸りすぎて、
光をあてすぎてしまって、
像を失うこともある。

こんな歳になったって、
そうそう上手くはいかない。
Img_68db89291fecb1b99387acf76c29d9be
メガネを買った。

展覧会のキャプションが見えにくくなっていることに気が付き、ぞっとする。
文字がこのくらい見えにくいということは、作品だって見えていないということだ。
見えないことよりも、見えていないことに無自覚なことの方がずっと怖い。

月末に上京しようと思っている。
見たい展覧会が重なっているから。
山種で、近代以降の日本絵画としては最も敬愛する村上華岳展が開かれるし。

それで、メガネ。
ちゃんと見たいから。

視力検査をすると、見えない見えないと思っているわりに、
1.0も視力はあると言われる。

でも、視力検査のあの文字を、私は相当に勘で読んでいるんだ。
ほとんどボヤボヤだけど、モノの形には芯があるから、
その芯を基に推察すれば、大抵読める。
本当は見えてない範疇だと思うけれども、
そうやって、姿にならない気配を形にするのが自分の制作の常だから、
多分、視力検査としては禁じ手を行使しているのじゃないかと思う。

90を過ぎた祖母が、幼少の記憶で「文化人形」を作ったことがあった。
「高橋真琴」的な面立ちの可愛らしい人形だった。
ほとんど眼の見えない祖母は、どうやって針の穴に糸を通すのか。
父が祖母に訊ねると「心の眼で見る」と笑って答えていた。

夜中、老犬の世話で何度も散歩に出かける。
田舎町だから、星もよく見えるけれども、乱視の影響か、星の光がみなにじむ。
にじんだ光もきれいだなのだけど、掴みようがない気がして、切なくなる。

光の元、その芯を見失っているほどではないと思う。
でも、光の方向も、闇に消え入るその風情まで、細かに見ていたい。

これから、老化のようなことは加速していくのだろう。
与えられた時間は少ないのだし、
使えるものはなんだって使って、見えるものは見ていたい。

ずっと右目1.5、左目2.0だった私。
メガネ屋のお兄さんは
「このメガネで、1.5にすることは可能です。
 体調さえよければ2.0近く見えます」と言ってくれた。

生活にはまったく不必要なスペック。
でも、今の心には必需品。