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私はほとんど人物画を描いてこなかった。
描きたい、と思う人に出会わなかったからということもあるし、描きたいと思っても、そこまで興味をひく人となると、なんだか照れてしまって、湯気やうさぎや花のようには凝視できないから、結局、描けない。
人間というのは、そんなに見つめちゃいけない気がするし、私はむやみやたらと見つめるから、いけないな。専門のモデルさんなら良いのかもしれないけれども、モデル業の方を描きたいとは思わないんだから、やはり無理だな、と諦めていた。

うさぎの「福太郎」を描く時もそうだったけれど、私はうさぎが描きたい訳ではなく、あくまでも「福太郎」が描きたかった。人を描く時も、その人を描きたいのであって、人を描きたい訳ではないから、モデル業の方を描く意味はまったくない。でも、描きたいと思う「その人」を描こう、見よう、と思うと「照れる」問題が浮上して、不可能、ということになる。照れると、もう何も見えないんだもの。

幸い「描きたいし、描けるかもしれない」と思える人に会えて、今、モデルをしていただいている。どういう訳か分からないけれども、彼女に私はあまり「照れない」。「描きたいな」「描ける気がする」と思ったのは、きっとこの「照れない」でいられる感覚があったからだろうと思う。興味は十分にあるのに照れないというのは全く希有なことだ。

2週に一度、アトリエに来てもらう。制作時間は3〜4時間くらいだろうか。時々、休むけれども、驚異的にジッとしていてくれる。私が目頭や小鼻や口角など、細かいところを確認したくてジーーーッと見つめても、微動だにしないし、たじろいだりもしないでくれる。ポーズに関しても、希望そってくれるし、保持してくれる。本当に心から感謝、感謝の至福の時間だ。

本各的に「人を描く」ことになって、初めて強くイーゼルの必要性を感じた。画面と対峙する姿勢を取るということが、他者と相対する上で必要なことだと思った。湯気や煙や氷の時は、どこまでも自分を対象の中に綯い交ぜに入り込ませられるような感覚があったから、腕の中にスケッチブックを納めて描く方が自然だった。
人を描くのはそういう訳にはいかない。自分と綯い交ぜにしてしまってはいけない。

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通販で購入したイーゼルを、アトリエで組み立てる。イーゼルがあると、俄然、画室の趣になる。「アトリエっぽいぞ!」とひとりごちつつ、彼女の来訪をわくわく待った。
久しぶりにイーゼルを使用すると、その便利さにあらためて感動した。見やすいし、描きやすいし、鉛筆を置いておく所もあるし、消しゴムをかけても揺れない。両腕を使える。あたり前過ぎることだけれども、専門の道具というのは良くできていると、つくづく思うのだった。

次の日、私は右腕の筋肉痛に襲われた。イーゼルを使い、腕を上げて描き続けたからだと気付いて、なんだか笑ってしまった。

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