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先日、高校時代の友達と会う約束をしていたのだけれど、風邪と、喘息と、低血圧の三つ巴に襲われ、やむなくキャンセル。「ごめんね、体調が」とメールしたところ、次の日「元気を出して」と、はらこ飯と小田和正さんが出演している20年前くらいのビデオを3本、持ってきてくれた。

彼女とは高校当時から共にオフコース、そして小田さんのファン友ということで「聡子が元気ないなら小田さんが一番だろう」と、車で遠出してくれた訳である。



小田さんのビデオのうち1本は、北野武との対談だった。私は「HANA-BI」までの武映画を愛している。「その男、凶暴につき」「3−4X10月」「あの夏、いちばん静かな海」「ソナチネ」「キッズ・リターン」。厳密に言えば「キッズ・リターン」までかな。この5本は本当にどれも素晴らしい。「HANA-BI」は少し、自己模倣的で始末が良すぎるように思う。とはいえ、泣くけれども。「クランキーチョコレート」で、毎回、涙腺結界。

「なぜ、作品を作るのか」という話になり、小田さんは「喜んでくれる人がいるから」と言うのだけれども、武はしばらく無言になる。「誰もいなくても作る?」という小田さんの問いに、武は、自分が最初の客だというようなことを言い、創造主のようには作れないけど、そのくらいのオリジナルなものを作りたいという気持ちがある、と抽象的なことを答えた。誰のためでもなく、作りたいと思うから作る、というようなことだろうと思う。それでいて別の場面では「作品を発表することには“ここに俺がいるよ”ということを発信している気持ちがある」とも言っていた。

ファンとしては、小田さんのスタンスを嬉しいと思ったし、同じ作り手としては武の返答に強く共感し、昔のブログに書いていた自分の文章を思いだした。2010年7月31日のエントリー。


「無人島で絵を描くか?」ということを、これまで何人かと話したことがある。
「見る人のいないところでは絵を描かないと思う」という返答が意外に多いことに驚く。

無人島でも、私はきっと描くだろうと思う。
砂浜を支持体にして、木の枝ででも描くだろう。
子供の時、誰に見せるでもなく、
アスファルトに石で絵を描いて、ひとり遊びを続けたように。

では「明日、世界が終わるとしたら絵を描くだろうか?」と、考えてみる。
世界が終わるなら、描かないかもしれない、と思う。
世界が無くなるなら、作品もまた消えるだろうから。
世界が消えると覚悟したら、自分は出来得る限り、
さまざまなものを見て回ろうとするのではないかと想像する。
よりしっかり見るために描く、ということはあるかもしれないし、
最後の最後に、最も愛着のある視覚情報を引き出そうと、
描いてみることもあるかもしれないが。

そう考えて、自分にとって描くことは、
見ることの延長線上なのだと気が付く。
自己表現とか、コミュニケーションとか、メッセージとか、
そういう部分ももちろんあるけれど、それは二次的な部分であって、
私にとって描く理由の根幹はやはり「見る」ことなのだと思う。
誰かに見せるために作品を作るのではなく、
自分が世界を見るために試みた行為が作品になるという方が、
私の気持ちにはぴったりとくる。

だから、時に、自分の作品を理解してもらうと、
毎回、奇跡のように驚くし、嬉しく思う。
自分以外、誰もいないと思っていた島で、
同じようにひとりきりでいた人に、出会えたように感じるからだ。

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